書く書く しかじか

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ツァラトゥストラはこう言った 永遠回帰、善悪の価値創造、そして超人へ

かく語りし、ゾロアスター教の開祖

  ドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900年)の最も有名な著作、「ツァラトゥストラはこう言った」(「ツァラトゥストラはかく語りき」などタイトルの訳し方はいくつかあります)の中から、印象的な言葉を集めてみたいと思います。

 

 ツァラトゥストラは、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラをドイツ語読みしたもの。ツァラトゥストラは修行していた山を下りるところから話は始まり、道中で出会う様々な人たちに教えを語っていくという形を取っています。

 

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 ちなみに、ザラスシュトラを英語読みしたものがゾロアスターです。ゾロアスター教最高神アフラ・マズダーで、アルファベットのつづりはMazda。自動車会社マツダは、これを社のアルファベット表記として用いていると公にしています。ゾロアスター教善悪二元論の宗教で、ササン朝ペルシャ226~651年)の国教として広まりました。ササン朝イスラム教勢力の侵攻によって滅ぼされました。

 

 では、ツァラトゥストラの教えで、目に着いたところを拾っていきます。

 

  •  人間は克服されなければならない或物なのだ。(「超人と「おしまいの人間」」たちより)

 このフレーズは全編にわたって、何度か出てきます。 

 

  •  かつては神を冒涜することが、最大の冒涜であった。しかし、神は死んだ。したがってこれら神の冒涜者たちもなくなった。いまや最も恐るべきことは、大地を冒涜することだ。(「超人と「おしまいの人間」」たちより)

  有名な言葉「神は死んだ」が出てきました。ニーチェニヒリズムを象徴する言葉と言っていいでしょう。ニーチェキリスト教を弱者の宗教だとし、強者に対する恨みや妬みを「ルサンチマン」と名付けました。

 

  •  人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、―深淵のうえにかかる綱なのだ。
     渡るのも危険であり、途中にあるのも危険であり、ふりかえるのも危険であり、身ぶるいして足をとめるのも危険である。
     人間における偉大なところ、それはかれが橋であって、自己目的ではないということだ。(「超人と「おしまいの人間」」たちより)

 

  •  人間は相互の敵意のなかで、さまざまな影像と幻影の発明者とならなければならない。そして、それぞれの影像と幻影をもって、いよいよはげしく敵対し、最高の戦いをたたかわなければならない。
     善悪、貧富、貴賎、その他もろもろの価値の名称、それらは武器であるべきなのだ。生がたえず自己自身を克服して高まらねばならないことを示す戦場の標識であるべきなのだ。
     生そのものが柱をたて、階段をつくって、自己自身を高く築きあげようとする。生は、はるかな遠方を眺め、至福の美を望み見ようとする。―そのために、生は高みを必要とするのである。
     高みを必要とするから、生は階段を必要とし、階段とそれを昇って行く者の相克を必要とする。生は登ろうとし、登りつつ自己を克服しようとする!(「毒ぐもタランテラ」より)

 

  •  精神とは、みずからの生命いのちに切り込む生命いのちである。それはみずからの苦悩によって、みずからの知を増すのだ。―あなたがたはまだこのことを知らない。
     そして精神の幸福とは、油を塗られ、涙できよめられて、犠牲いけにえの獣となることである。―あなたがたはまだこのことを知らない。(「名声高い賢者たち」より)

 

  •  恒常不変の善と悪、そんなものは存在しない! 善と悪は、自分自身で自分自身をくりかえし超克しなければならない。
     あなたがた価値評価者たちよ、あなたがたは、あなたがたの立てたもろもろの価値や善悪の見解によって、支配力を及ぼしている。しかしこのことは、実はあなたがたの隠れた愛であり、あなたがたの魂のかがやきであり、震えであり、沸騰なのだ。
     しかしあなたがたの立てたもろもろの価値からは、より強い支配力と新しい克服が育ち、大きくなってくる。それによって卵の殻はわれる。
     善悪において創造者とならなければならない者は、まことに、まず破壊者となって、もろもろの価値をこわさなければならない。
     だから、最高の善意には、最高の悪意が必要ということになる。こうした最高の善意こそ創造的な善意なのだ。―(「自己超克」より)

  キリスト教において、神は絶対的な存在です。しかし、「神は死んだ」のです。よって、「恒常不変の善と悪」は「存在しない」ことになります。ニーチェキリスト教を弱者のための宗教とみなし、弱者の強者に対する妬み、嫉みなど負の感情を持つことをルサンチマンと定義づけました。

 

  •  意志―これが自由にし、よろこびをもたらすものの名だ。そうわたしは前に、あなたがたに教えた! いまはさらにこのことを学ぶがいい! 意志そのものはまだひとりの囚人なのだ。
     意志することは、自由にすることだ。しかし、この解放者をもなお鎖につないでいるものがある。それは何か?
     『そうあった』―これこそ意志が歯ぎしりして、このうえなくさびしい悲哀を噛みしめるところである。すでになされたことに対しては無力である、―意志はすべての過ぎ去ったものに対しては怒れる傍観者なのだ。
     意志は、さかのぼって意志することができない。意志は時間を打ち破ることができない。時間の勝手な欲求をくじくことができない。―これが意志のこのうえなく寂しい悲哀である。
     意志することは、自由にすることだ。意志は、その悲哀を脱し、その牢獄をあざけるために、みずから何を考えだすだろうか?
     ああ、すべての囚人はとんでもないことを考えるようになるものだ! 囚われた石もまたとんでもないやりかたで、おのれを救おうとする。
     時間が逆もどりしないということ、これが意志の深い憤懣ふんまんである。『すでにそうあったもの』―意志がころがすことのできない石の名はこれである。

 

  ―――― 以下 下巻 ――――

 

  •  何が善であり、悪であるかは、まだだれも知らない。それを知るのは創造する者だけだ!
     ―ところで創造する者とは、人間の目標を創造し、大地にその意味と未来とを与える者のことだ。この者がはじめて、或るものが善であり、或るものが悪であるということを、創造するのである、と。
     そしてわたしはかれらに言った、―あなたがたの古い講壇を倒せ、と。またあの古ぼけたうぬぼれが坐っていたところも、ことごとくくつがえせ、と。わたしはかれらに、あなたがたの偉大な有徳者と聖人と詩人と救世主とをあざ笑え、と言った。
     あなたがたの陰気な賢者たちを笑い、黒い案山子然と、いましめ顔に人生の木の上に乗っていたすべての者をあざ笑えと、言った。(「古い石の板と新しい石の板」より)

 

  •  人間は克服されなければならない或るものなのだ。
     克服にはいろいろな道と方法がある。それは、あなたが試みなければならないのだ! 道化師だけが、「人間は飛びこすこともできる」と考える。
     あなたの隣人のなかにも住むあなた自身を克服しなさい。そして、あなたが奪い取るべき権利を、ひとの手から与えられてはならない!
     あなたがしたとおなじことを、だれもあなたに二度とすることはできない。それだけでも因果応報などということはありえない。
     自分自身に命令することのできない者は、ひとに服従することになる。自分自身に命令できる者は少なくないが、かれらも自分自身に服従するまでにはなかなかなれない!(「古い石の板と新しい石の板」より)

 

  •  高貴な魂のありかたはこうである。かれらはどんなものでも、無償で手にいれようとはしない。まして人生を。―
     賎民の出の者は、無償で生きようとする。しかし、われわれそうでない者は、人生という贈り物を与えられたと考え、いつもこれに対して、何を報いたらいちばんいいかと考える!
     そしてまことに、つぎのように言うのが高貴な者にふさわしいことばである。「人生がわれわれを選んで、何か約束してくれるなら、―その約束を、われわれは守ってやろう!」
     享楽を与えないで、自分だけ享楽を欲してはならない。また、そもそも享楽とはけるもので、それを欲するということはよくない!
     つまり、そうした享楽とか無邪気さとかは、最も恥じらいのつよいものなのだ。そのどちらもすすんで求められるべきものではない。ひとはそれを自然に持ちあわせなければならない―、むしろ、罪と苦痛を子そ求めなければならない!―

 

  •  真実であること―そうありうる者はすくない! またそうありうる者も、そうあることを欲しない! しかし、いちばんそれができにくい者は善人だ。
     おお、この善人どもよ! 善人どもは決して真実を語らない。こんな意味で善だということは、ひとつの精神的な病気である。
     かれら善人たちは、譲歩する。忍従する。かれらの心情はごまをすり、かららの論拠はいいなりになる。そして、いいなりになる者は、自分自身の本心に耳を傾けない!
     ひとつの真理が生まれるためには、善人たちに悪と呼ばれているすべてのものが、集まってくる必要がある。おお、わたしの兄弟たちよ、あなた方はこの意味の真理を生みだすだけで十分悪くあるであろうか?
     不敵な冒険、長期にわたる不信、残酷な否定、はげしい嫌悪、いのちに刃向かうもの、―こうしたものが集まることは、なんとまれなことか! だが、真理が生みだされるのは―こうした種子によってである!
     これまでもすべての知識は、やましい良心と手を取りあって成長してきた。打ち砕きなさい、あなたがた二院指揮者よ、古い石の板を!(「古い石の板と新しい石の板」より)

 

  •  動物たちは答えた「(略)おお、ツァラトゥストラ、あなたが何者であるか、何者にならなければならないかが。そうです、あなたは永遠回帰の教師なのだ―、これがいまからのあなたの運命なのです!
     あなたがこの教えを説く最初の者とならなければならないということ、―この大いなる運命が、どうしてまたあなたの最大の危険と病気にならずにすむでしょう!
     ああ、わたしたちはあなたの教えることを知っている。それは、一切の事物が永遠に回帰し、わたしたち自身もそれにつれて回帰するということ、わたあしたちはすでに無限の回数にわたって、存在していたのであり、一切の事物もわたしたちとともに存在していたということです。
     あなたの教えはこうです。生成の循環が行われる大いなる年、とほうもなく巨大な年がある。それは砂時計のように、なんべんもひっくりがえって、はじめにもどらなければならない。こうしてまたあらたな経過が起こり、過ぎて行くために。―
     ―だからこうした巨大な年は、細大洩らさず、たがいにそっくりそのままなのだ。―だから、こうした巨大な年のなかにいるわたしたち自身も、最大洩らさず、たがいにそっくりそのままなのだ。
     かりにいま、おお、ツァラトゥストラ、あなたが死に臨もうとするなら、そこであなたがどんなことをわが身にむかって言うだろうかということも、わたしたちにはわかっている。―最もあなたの動物であるわたしたちとしては、まだあなたに死なれたくはないけれども!
     あなたはこう言うでしょう。震えもせず、むしろ至福のあまり、吐息をつきながら、―というのは、大きな重苦しさ、うっとうしさが取りのぞかれたのだから。思えば、あなたはよくもこれまで堪えてきたものだ!
     あなたはこう言うでしょう。『いまわたしは死んで行く。消滅する。一瞬のうちに無に帰する。魂も、身体と同じように、死をまぬかれない。
     だが、多くの原因を結びつけてわたしというものをつくりだしている結び目―その結び目は、またわたしをつくりだすだろう! わたし自身も永遠回帰のなかのもろもろの原因のひとつとなっている。
     わたしは再び来る。この太陽、この大地、この鷲、この蛇とともに。―新しい人生、もしくはより良い人生、もしくは似た人生にもどってくるのではない。
     わたしは、永遠にくりかえして、最大洩らさず、そっくりそのままの人生にもどってくるのだ。くりかえし一切の事物の永遠回帰を教えるために、―
     ―くりかえし大地と人間の大いなる正午について語るために。くりかえし人間に超人を告知するために。(「快癒に向かう者」より)

 ニーチェの思想「永遠回帰」がここで初めて登場します。ツァラトゥストラの言葉ではなく、動物(蛇と鷲)がツァラトゥストラに語りかける形で出てきます。永遠回帰は、すべてが円環運動の中にあり、一切のことが繰り返される思想をいいます。その中で、意志を持ち、善悪の価値判断を壊す創造者たらんとする者を、ニーチェは「超人」と呼び、目指すべき境地に掲げました。