書く書く しかじか

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どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか? 羽生善治の強さに迫る稀有な1冊

 将棋の羽生善治さんは、なぜ勝ち続けられるのか。なぜ強いのか。そのシンプルな命題にとことん迫ったITコンサルタント梅田望夫氏の著書「どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?」を取り上げたい。これはなかなかの名著だ。羽生さんを中心にした人物ドキュメンタリーでありながら、研究争いが激化した将棋界の今に迫るノンフィクションであり、さらに棋力を上げたいアマチュアが読む参考書にもなり得る。かなり稀有な作品と言っていいだろう。

 

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 初版は2010年11月。やや年月が経って、羽生さんを取り巻く状況や流行の戦法など、変わってきている部分はある。それでも、今でも間違いなく手に取ってみる価値はあるし、もっと言えば、羽生さんが永世7冠の達成によって国民栄誉賞を受賞した今だからこそ、振り返って手に取るべき作品だと感じる。

 

 どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?

 

 この問いに、筋道立てて、将棋に詳しくないファンにまで分かりやすく説明するのは容易ではない。

 

 2018年3月末時点で、羽生さんのタイトル獲得は歴代1位の99期。現役2位は谷川浩司さんの27期で、同3位は渡辺明さんの20期だ。谷川さんも渡辺さんも同じ中学生でプロになった正真正銘の天才棋士。それなのに羽生さんとの間でこれほど数字の違いが生まれる理由は何なのか。

 

 羽生さん関連の著書は、世に多く存在する。著者は羽生さん自身のものもあれば、他のプロ棋士が書いたものもあるし、観戦記者らライターが手がけたものもある。著者が羽生さんではない作品について言えば、なぜ羽生さんがなぜ強いかについては、たいてい取り上げられている。ただし、その多くは、要約すれば「人並み外れた天才が、将棋への尽きない情熱でを持って、たゆまず努力しているのだから、強いに決まっている」といった分かりやすい結論に行きついてしまう。

 

 もちろん、それは何一つ間違っていない。ただ、やや具体性に乏しい。もう少し説得力がほしい。羽生さんが突き抜けた背景には、才能と努力の掛け算とは別に、何か言語化されていないものがあるのではないのか。梅田氏はその問いに正面から向き合った。

 

 本作は基本的に、タイトル戦の観戦記ではある。ただ、新聞などに載っている観戦記と違うのは、著者自身を作品に登場させるノンフィクションの形を取っていることだ。羽生さんとタイトル戦を戦う三浦弘行さん、山崎隆之さん、深浦康市さんらとの対話を通じて、羽生さんの強さや将棋界の今を浮き彫りにしていく。

 

 著者はITコンサルタントでありながら、棋士の本音を引き出す技術はジャーナリスト顔負けに思える。とりわけ、それが発揮されたのは、王座戦で羽生さんに挑戦した山崎さんとのやり取りだろう。投了した山崎さんに、羽生さんが怒りにも見えるまなざしを向けたというエピソードは、本作によって世に知られるところとなった。山崎さんの「(羽生さんが)勝っているのに、むかつきますよね」といった赤裸々な言葉は、将棋ファンなら必読だ。

 

 また、棋聖戦で羽生さんに挑む深浦さんについて、他の棋士が「これ以上タイトルを取ってほしくない」と妬みの言葉を漏らしていた部分も興味深く読んだ。これも取材対象と深い信頼関係を築けていないと聞き出せないたぐいのものだろう。匿名の扱いながらも、よくぞ臆することなく書いたものだと感心させられた。

 

 著者は言う。羽生さんの強みは、対戦相手の本質を把握した上で先を予測する能力や、研究競争に付いていくための努力、そのために必要な研究パートナーの戦略的な選び方など、さまざまな要素を総合的に兼ね備えていることにあると。加えて、羽生さんだけが持っているものがあり、それはタイトル戦に年中通して出場する緊張感のある日常で、それが要素として大きいのだと。

 

 つまり、圧倒的に強いがゆえにタイトル戦に出続けることができ、その中で羽生さんのさまざまな長所が研ぎ澄まされていき、さらに強くなっていくという循環が生まれる。それが、羽生さんの強さの根底にあると、著者は結論づけた。個人的に知る限りにおいて、これほど冷静に羽生善治という棋士を分析した作品はない。

 

 羽生さんの年度別勝率は6割台後半から8割台、悪くても6割台の前半で、それがプロ棋士となった15歳から45歳まで30年にわたって続いた。驚異的なことだ。しかし、年齢からくるものだろうか、歳月は流れ、衰えも垣間見えるようになった。2016年度は自身初の勝率5割台。17年度は王位、王座を立て続けに失い、勝率も2年連続で5割台に終わった。かつてのように圧倒的に勝ち続ける姿は、影を潜めている。

 

 それでも、17年度の棋聖戦では成長著しい斎藤慎太郎七段を相手に防衛。同年の竜王戦では、因縁の渡辺明さんからタイトルを奪取して永世7冠を成し遂げてみせた。ここ一番での凄みは、今もって変わっていない。

 

 さきほど述べたように、天才と呼ばれる棋士は、羽生さん1人ではない。今も過去にも何人かいる。史上5人目の中学生プロ、藤井聡太さんは、羽生さんを含めた過去4人の中学生棋士を上回る史上最高の才能かもしれない。だが、「史上最強」の冠をかぶせるに値するのは、現時点で羽生さんしかいない。その高みまで上り詰めることができた秘密の一端に、この著書は確かに触れている。