書く書く しかじか

旅行記、食べ歩き、スポーツ、書評などなど、赴くままに書き連ねるブログ。

北風 小説 早稲田大学ラグビー部 藤島大 創部100年 DNAを伝えるために

フィクションでありノンフィクションでもあり

 スポーツライター藤島大さんが、「北風 小説 早稲田大学ラグビー部」を上梓しました。スポーツライターが書く小説とは、どういうものなのでしょう。結論から言えば、これまでに読んだあらゆるスポーツ系の小説で、最もスリリングで、知的で、こみ上げるものがある作品でした。

 

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 読んでいると、スクラムがぶつかり合う音が聞こえてきます。楕円球を限界の息で追う選手の姿が浮かんできます。描写がとにかく精緻で具体的。早大ラグビー部をめぐる日々が、ドキュメンタリー映画のように眼前に像を結びます。


 昭和の時代の早稲田ラグビーに題材を借りた青春小説、という紹介では言葉足らずでしょう。練習風景や菅平合宿、早明戦に至る準備の様子など物語の大部分は、おそらく事実に基づいて書かれています。よって、フィクションでありながら、名門のなんたるかを知るためのノンフィクションとしても読むことができます。「人種のるつぼ」たる早稲田らしく、登場人物たちは多様にして多彩。その個性を追うだけでも楽しめます。


 筆力に優れているだけでは、ここまで書けないでしょう。ラグビーへの深い見識があるだけでは、この高みまで到達できないでしょう。それらを備えているのは前提です。その上でなお、これほど密な作品を生み出すために必要なもの―。それは、フィロソフィー。本作を読んで、確信しました。著者には、早大ラグビー部のグラウンドがあった東伏見西東京市)で培ったに違いない独自の哲学があると。その証拠を作中で見ることができます。

 

「早稲田ラグビーは言葉を求める」


 早大ラグビー部は大学選手権を全国最多の15度制覇しています。明治など他の有力校に選手の素材で劣っていながら、それでも栄冠をつかんできた理由は何か。限りない努力は当然のことです。でも、それだけでは足りません。


 「早稲田のラグビーは言葉を求める」。本作の中にあります。核心はきっとここです。


 1浪して商学部に入学した主人公の1年生フッカー草野点は、厳しい練習に追われる自らの境遇を見つめながら言います。「ひとつのことに打ち込んだほうが、人間はたくさんものごとを考える。間違いない」。草野点はそうやって己の全てをラグビーに注ぎ、周囲のプレーヤーを観察し、もろもろを言語化しながら上達していきます。見て、盗む、ではありません。見て、考え、言葉に置き換え、実践する。とても理知的です。


 「ラグビーに基本はない。戦法に応じた基本があるだけ」。早稲田ラグビーの指導の根幹だと著者は記しています。体格やキャリアで上回る明治に勝つためにはどうすればいいか。必然、逆算して戦略的に強化していくほかありません。どうしたって、おのおのの感性は研ぎ澄まされます。こうした人材の切磋琢磨が、早稲田を早稲田たらしめるのです。


 著者もきっとこのような環境で、他人に目を凝らし、己を深く省みてきたのでしょう。その濃密な時間によって、人物や物事を見る土台が出来上がったのではないでしょうか。ゆえに、生半可な書き手では出てこないような言葉があふれ出ます。無二のスポーツライターは、主戦場ではない文芸の世界においても、オリジナリティーあふれるステップを踏んで見せました。

 

小説を手掛けた理由は?


 それにしても、著者が小説という形でこのような作品を手掛けた理由は何だったのでしょうか。早大ラグビー部は1918年の創部で、今年100周年を迎えました。その節目に合わせて書いたのは、間違いありません。でも、小説でなければならない理由の答えは、そこにはありません。


 早大ラグビー部は2002年、東伏見を離れて上井草(杉並区)に移転しました。人工芝を備えたグラウンドで、部室も真新しくなり、練習環境は格段に改善しました。翌03年、13年ぶりに大学選手権を制覇。この時の監督は、清宮克幸氏でした。


 合理と効率を徹底的に重視した清宮氏の監督としての成功は、早稲田はもとより、大学ラグビー界にとっての大きな転換点になったと個人的には思います。理不尽と思えるような長時間練習を廃止し、「横のワセダ」にありながらスクラムで真っ向勝負できるだけのフォワードの大型化を求め、用具提供でアディダスと契約して選手の自尊心をくすぐりました。ここに東伏見の薫りはありません。


 時代の流れ、と言ってしまえばそれまででしょう。しかし、東伏見には連綿と受け継がれてきた部のDNAがあります。忘却は許されません。創部100周年を機に、後世に伝えるためにどうすべききでしょうか。


 ノンフィクションでは、どうしても主要人物に焦点が当たってしまいます。イメージが限定的になりがちです。まして、これまでの出来事を総ざらいした部史のようなものになってしまっては、一般人が手に取るにはハードルは高いでしょう。著者は節目の年を迎えるにあたって、早稲田ラグビーそのもの、有形無形の真髄とも言うべきものを残したかった。よって、架空の人物たちが躍動する小説という体裁を取った―。仮説としてどうでしょうか。


 清宮氏の変革を引き金とするように各校のさまざまな強化が進み、翻って早稲田の不振が続いています。皮肉なことです。大学選手権9連覇中の帝京には、ラグビー界のみならず、あらゆる集団スポーツが手本にすべきことが多くあるでしょう。でも、同時に早稲田や明治が、帝京の完全なる二番煎じになってほしくないという思いもどこかにあります。


 伝統を継承しつつ、時流に合ったものを採り入れ、頂点を極める。口で言うほど、容易ではないはずです。でも期待してしまいます。ありし日の時代に連れて行ってくれる本作を読めば、きっと多くの人が同じ思いを抱くに違いありません。