書く書く しかじか

旅行記、食べ歩き、スポーツ、書評などなど、赴くままに書き連ねるブログ。

Mr.Children here comes my love 海原に漕ぎ出す者の正体は…

空と海の3部作?

 Mr.Childrenの新曲here comes my loveが描き出す世界は、壮大という一語に尽きる。登場人物がどんな状況に置かれているのか具体的な説明はどこにもなく、ただひたすら、見えない何かに向かって進んでいく光景と心情が、抑制の利いたモノトーン調のフレーズでつづられる。何一つ浮かぶものがない水平線を見つめる思いで、どこまでも果てしない。

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 詞をじっくり眺めて解体してみたとき、単に美しいだけの曲ではなく、そこに作り手の深層意識がにじみ出ていると感じてしまうのは、私だけだろうか。

 

 考えすぎかもしれない。でも、これは1つの独立した曲でありながら、直近のシングル2曲と互いにつながり合っていると、どうしても思えてしまう。

 

 もう少し踏み込んで言おう。here comes my loveは、ヒカリノアトリエ、himawariとともに「空と海の3部作」を成し、その最終章を飾っている、と感じたのだ。

 

 「空と海の3部作」は言うまでもなく、私が思いついた造語であって、ミスチルのメンバーが口に出しているものではない。ここでは、本稿の理解を助けるための仮題のようなものと思ってもらえばいい。

 

 さて、ヒカリノアトリエ、himawari、そしてhere comes my loveでなぜ「空と海の3部作」になるのか。それぞれの歌詞を見てみよう。

 

 ヒカリノアトリエは、夢や希望といったものは簡単には見つからないかもしれないけど、あきらめることなく歩んでいこう、と歌う明るいメッセージソングだ。すさんだ心を優しく包んで、奮い立たせてくれる。そんな歌詞の中で、注目したい言葉は、以下の5つだ。
「雨上がりの空」「虹」「晴れた時」「地平線」「薄暗い雲」

 

 対してhimawariは、死に直面した「君」の生き様を、「僕」がそばで見て、悩み、苦しむというラブソングだ。心をかきむしるような痛々しさと重苦しさが、聴き手に深く突き刺さる。同じように気になる単語を抜き出してみる。
「嵐」「彷徨う」「漕ぎ出す」

 

 最後に、here comes my loveでも、歌詞から言葉を拾ってみよう。
「彷徨う」「波」「夜の海の向こう」「風」「海原」「見上げた空」「雨雲」「泳いでいこう」

 

 取り上げた単語やフレーズを見比べてみて、どうだろう。それぞれの曲が持つ性格、曲調は互いに全く異なるにもかかわらず、空と海、そしてそれらに関連する言葉が多いと感じないだろうか。

 

 「彷徨う」はhimawariとhere comes my loveで続けて使われているし、「雲」もヒカリノアトリエとhere comes my loveの双方に修飾語の違いはあれど登場する。himawariの「漕ぎ出す」とhere comes my loveの「泳いでい」くは、意味的に同じようなものだ。

 

 細かく精査したわけではないが、ミスチルのシングルで3曲続けて、これほど似た領域の言葉が用いられたことは、かつてなかったはずだ。

 

無意識の意識?

 

 では、今回なぜこのように繰り返し使われたのだろう。3曲に一貫性を持たせるような意図があったのだろうか。

 

 結論から言うと、それはない。断言していい。なぜなら、そんなことをする意味はないからだ。いずれの曲もドラマ、映画の主題歌として使われているものの、それ以上の共通項はなく、1本の線で結ぶ必然性はどこにもない。

 

 それでも、こうした言葉が現実として並んだ。ヒカリノアトリエからhere comes my loveのリリースに至るまで、期間で言えば1年の間に。

 

 その理由として、私は詞を書いた桜井さんの潜在意識が形になって現れたからだと考える。

 

 あれはいつの、どの媒体のインタビューだったか、はっきりとは思い出せないのだが、桜井さんが自身の詞について語っていたことで印象的だったことがある。

 

 いわく、詞を書いたその時、なぜそのように書いたのか自分でも意味が分からないことがある、でも後から振り返ってみて、自分があの時、こんなことを感じていて、それでこういう言葉を選んだのだと分かることがある、と。

 

 この記事を読んだ時、桜井さんは詞に関してすべてをコントロールして、計算ずくで書くのではなく、瞬時のひらめき、無意識の中の意識のようなものも大事にされているのだと感じた。おそらくは、日ごろからとことん自分と向き合い、内面を深く見つめ、そこからふいに湧き上がってくる言葉を逃さず拾い上げる、といった作業を繰り返されているのではないだろうか。

 

 ここ数年の歌詞を見る限り、その姿勢は今も大きくは変わらない気がする。そう考えると、ヒカリノアトリエからhere comes my loveへ続く3曲に似た言葉が集まったのは、桜井さんの深層心理がなしたわざだととらえることもできる。

 

新たな旅路を歩む

 

 昨今のミスチルを語るにあたって、どうしても外せないのは、所属事務所からの独立、および作品のセルフプロデュースだ。メンバーはその話を持ち出されることにうんざりしているかもしれないが、それでも大きな転換点だった以上、避けて通ることはできない。だから、何度でも触れる。

 

 かつては進むべき道を示す行程表の作成者がいた。でも、今は、いない。どこへ、どう向かうか、その方向性を決めるのは、自分たちだ。himawariとhere comes my loveで使われた「彷徨う」という語を用いて言えば、ルートマップなき未知の地を彷徨っているのは、ほかならぬミスチルのメンバーなのだ。それはREFLECTIONというかつてない大作を仕上げた後も、きっと変わることなく続いている。

 

 虹が架かる空へ飛び立つようなワクワク感、どこまでも続く大海に漕ぎ出すような緊張感、暗い雲や嵐の到来を気にしながら地平線に向けて進んでいくかのような不安感。そんなさまざまな思いが、茫漠とした世界で沸き上がっているのではないだろうか。

 

 そんな現在のミスチルが置かれた境遇が、桜井さんに無意識的に「空」や「海」といった言葉を続けて選ばせたように思えてならない。 

 

 ここで「空と海の3部作」という題でひとくくりにしたが、これが3という数字で終わるかどうかは分からない。4以降に続く可能性だってあるかもしれないし、途切れたとしても、またどこかで復活するかもしれない。それをわれわれが知るよしはないし、もしかしたら桜井さん自身もはっきりとしたことは言い切れないかもしれない。なぜなら、桜井さんは作者でありながら、作品に対する絶対神の立場を必ずしも取ろうとはしていないからだ。

 

 人間の内側をどこまでも深くえぐっていくと、誰であっても似たようなものが奥底に横たわっているのかもしれない。桜井さんはそこに鉱脈を見いだし、言葉を引っ張り上げてくる。それをこねくり回すことなく素材として生かし、美しくて大胆で、斬新な装飾を施して世に送り届ける。だからこそ、その詞は時代を超えた普遍性を獲得し、多くの人の心に響くのである。

 

 歌詞の裏に潜んだ声が、聴こえないだろうか。

 

 Here comes my consciousness(ほら、これが僕の意識だよ)と。