Mr.Children himawari 歌詞が先か 映画が先か
Mr.Childrenのファンクラブ会報No.76が、自宅に届きました。レコーディングやライブなど現在の活動に関するまじめな話あり、JENさんのおふざけコーナーあり、いつも楽しませてもらっています。
しかし今回、少しばかり後ろめたい思いに駆られました。
それは新曲のhimawariをめぐるインタビュー記事を読んでいた時のことでした。
himawariは映画「君の膵臓をたべたい」の主題歌として、2017年7月26日に発売されています。
「君の膵臓をたべたい」は膵臓に重病を抱える少女と、クラスメイトの少年が心を通わせる物語で、死と向き合ったhimawarの歌詞は、映画の内容にものすごく沿っていると話題になりました。
私もそのように感じて、以下のような文章をAmazonのカスタマーレビューに書きました。引用します。
切ない。胸がえぐられる。Mr.Childrenの歴史上、最も鋭利な刃を持ったロックバラードだと感じる。それも当然だろう。死をストレートに扱って、確信的にリスナーの涙を誘ってくるのだから。デビュー25年。モンスターバンドが未開の分野で新しい花を咲かせた。
死をテーマにした過去の曲としては、花の匂いが思い浮かぶ。ただ、中身は決定的に違う。花の匂いは死をオブラートな言葉で包みながら、去って逝った人への思いを歌った。対して、himawariは死が今、目前に迫ってきている人に光を当てている。表現は直截的。だから、はるかに切迫感があって、痛々しい。物憂げでありながら力強いエレキギターを中心に据えたバンドサウンドが、「暗がりで咲いてるひまわり」のはかなさを浮き立たせている。
これほど詞的に美しい楽曲は、名うてのミスチルにあっても珍しいと思う。「優しさの死に化粧」「想い出の角砂糖」のパートは、どうたたえればいいのだろう。言葉が見当たらない。
「君」の気高さを歌う1番から一転、2番では「僕」の内面へと踏み込んでいく。「何故だろう 怖いもの見たさで 愛に彷徨う僕もいる」からのフレーズも、あまりに素晴らしすぎてぼう然としてしまう。「違う誰かの肌触り」を思い描く「僕」は不埒なのか。そうではないだろう。「君」を大切に思うからこそ、「僕」は喪失の先にある世界を恐れ、そこで出会う誰かを想像してしまう。死の直面を悲しむだけではない、一歩引いた「僕」の心情をくみ取ったことで、2人の密な関係がよりリアルに伝わってくる。なんと美しく計算された仕掛けだろう。
himawariは映画「君の膵臓をたべたい」の主題歌として作られている。これまでもミスチルは多くの映画に楽曲を提供してきた。ただ、このhimawariは過去のどの映画主題歌とも様相が異なる。これほど映画の内容に沿うような曲はかつてなかったはずだ。
では、なぜ今回、変化が見られたのだろうか。
ここからは推測で書く。背景に「君の名は。」があるのではないかと思う。楽曲を担当したRADWIMPSは監督と徹底的に話し合いを重ねながら、映画と並走するように曲を書いたという。その結果、BGMという枠を超えた数々の作品を、自分たちの色を消さないまま完成させた。
「君の膵臓をたべたい」を担うに当たって、監督からミスチル側にどんな要請があったかは分からない。ただ、「君の名は。」の興行的成功が製作現場に与えた影響の大きさは想像に難くない。主題歌は映画を前に進める車輪の一つ。そんな認識を意識的にか無意識的にか両者が共有して、ミスチルがかつてないほどストーリーに歩み寄って行ったとしても不思議はないだろう。そこで生まれたhimawariは、どこを切り取っても重量感あふれるミスチルのロックでありながら、かつてのミスチルにはなかった死と生のコントラストを歌い上げた傑作になった。
CDはhimawariから始まって、ライブ収録曲を挟み、もう1つの新曲である忙しい僕らへ続いていく。この構成がまた出来過ぎている。忙しい僕らでは、こう歌われる。
「高く舞いあがったボールも 必ず地上に落ちるように それが良いことであっても また その逆でも 同じ場所に とどまってはいられないから」
himawariと忙しい僕ら、この2つの曲が近い時期に生まれたのは偶然なのか、それとも必然なのか。himawariで投げかけられた死という現実、不条理、それに対するひとつの回答が、忙しい僕らで示されているように思えてならない。ボールは落ちる。同じように、命は尽きる。何者もあらがえない。だから、前に進んでいく。
「泣いて 泣き止んで また泣いて 笑って 忙しい僕らは日々をまた刻んでく」
まさに道理。ありがとう。また4人から生きる力をいただいた。
レビューに記した通り、himawariはこれまでのミスチルの映画主題歌の中で、ストーリーと歌詞の親和性が最も高いと感じました。その背景として、「君の名は。」が少しばかり関係しているではないか、と推測しました。
しかし、ファンクラブの会報で、桜井さんはhimawariの歌詞について、このように答えておられました。
「映画に関しては本当に奇跡的な一致というか、主題歌のお話をいただく前からこんな歌詞を書いていたので…」
さらに、ギターの田原健一さんも別ページのインタビュー記事で、こう話しておられました。
「歌詞はもともと先にあって、偶然、映画に出会えたんだよね」
なんと、himawariの詞は早くにできていて、その後に映画のタイアップが決まったというのです。私のレビューを含めて、「映画に寄り添うように詞が書かれている」というネット上の声は、ものの見事に一蹴されました。
詞をめぐるさまざまな憶測を、メンバーは放っておけなかったのかもしれません。その裏にあるのは、タイアップの有無によって表現が変わることはないというトップアーティストとしてのプライドでしょうか。それとも、映画・ドラマのストーリーと一体化して聴こえるhimawariのような主題歌を今後も求められかねないことに対する憂慮でしょうか。
いずれにせよ、桜井さんと田原さんは、会報上で意識的に「詞が映画より先にあった」と言及し、世間の認識の軌道修正を図られたのではないか、と感じました。
私としては、根拠のない話を長々とレビューに連ねることによって、メンバーを不快にさせる一群に加わったかもしれないと思い、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような気がいたしました。
一方で、詞を書いたときの作者の心情や、制作の裏側を想像してみるのは、ファンにとって大きな楽しみの一つです。それら感じ取ったものを、さまざまな媒体を通じて発信するのは、決して悪いことではないでしょう。
ファンはアーティストに届くと信じて率直な意見を述べ合い、アーティストはそこからファンの思いを知って次の活動へと生かしていく。そんな美しい循環が生まれるのが、この上ない理想だと考えます。互いのプラスの力に変わるような場が、少しでも増えていけばと願ってやまみません。
最後に一言。歌詞が書かれた順番なんて関係なしに、himawariは傑作です。